December 03, 2011

高橋波之助の菩提寺・東福寺を訪う

 東京・谷中で生まれた私の乳児期の写真の一つに横山大観の墓前で、乳母車からシャッターを見ているものがある。母の話では、父や近所の人に朝方谷中の墓地まで散歩に連れて行ってもらい、その間に部屋の掃除をすませたという。成人してからは、横山大観よりその前の公衆トイレの脇に立つ高橋お伝の墓を同情をもってみることが多かった。何度かたずねているがいつも花が絶えない。

仮名垣魯文が発起人となった三回忌の法要後に建てられた、お伝の墓を訪ねる人はあっても、その最初の夫、高橋波之助の墓参をする人はあるまい。だがもしかして、という思いもあり、1872(明治5年)8月にハンセン病でなくなり、葬られたという寺・東福寺を横浜市西区赤門町に訪ねた。「墓らしきものは何もない」という『歌舞伎新報』(明治12年5月30日号)の記事どおりのため、無名無縁者のための万霊塔に合掌した。









横浜中心部の古刹東福寺。
5月の新緑に映える赤門は、焼失しても地元の人々によって再建されてきた。


ご住職の話では何度も焼け文書が失われているため、かえってこの記事は貴重だということだった。記事は1879(明治12)年5月に高橋お伝を主人公にした「綴合於伝仮名書」(とじあわせおでんのかなぶみ)という河竹黙阿弥の狂言の新富座での上演を前にして、波之助役の市川小団治が取材した内容となっている。

小団治は寺の人から葬式のようすを聞き出している。亡くなった吉田町の宿屋から、差し担いで骸が運ばれ、「秋還信士」という戒名と回向料にわずか50銭支払われただけだったという事実をつかんで帰京している。東京・横浜の下等運賃が往復60銭という時代に支払われた葬式代は、お伝のなけなしの金だった。発病すれば離縁ということがあたりまえだった時代に、病苦の夫を看取った女性、お伝は、波之助と死別後、生活苦から男性遍歴を重ね、古着商謀殺の罪で斬首された。1879(明治12)年1月31日のことだった。

私が東福寺を訪ねた理由は、河鍋暁斎筆「新富座妖怪引幕」に描かれた波之助像への現代的視点を提示するためである。小野迪孝氏が河鍋暁斎研究誌『暁斎』88号で解明した、「みそおでんを食う波之助」像の新解釈、すなわち、お伝役尾上菊五郎を凌ぐほどの演技を小団治はみせた、という楽屋落ちとの説には、まったく異論はない。だが、従来、ハンセン病研究者による仮名垣魯文の「お伝」を差別表現と断罪する趣旨に沿えば、魯文の構想によって暁斎が描いた病者の図像は、ハンセン病の患者イメージを固定化し差別を助長するものとして批判の対象になってしまう可能性がある。私は、引幕への表現批判がでるまえに、現代的視点を提示する必要を感じていた。埼玉県蕨市にある河鍋暁斎記念美術館の河鍋楠美館長から、研究会での発表依頼を受けたのはそうした折だった。

仮名垣魯文や劇場関係者にどのような行為と意識があったか。最後の戯作者との言い古された肩書きをもつ魯文が、高橋お伝の処刑前後、後藤昌文と起廃病院にもっとも友愛的であり連帯していたことは、拙論ですでに実証した。本当の肩書きは、ハンセン病を理解し問題解決に向けて行動した近代最初のジャーナリストでなければならない。後藤が構想した「貧らい院」、すなわち民間基金を募り貧窮患者の治療、教育、授産を行う施設の設立にかかわったと通説される成島柳北は、名前だけつきあいで連ねていて、寄付者に氏名は見えないのである。後藤からこの貧らい院の設立に新聞界も協力してほしいという要請を聞き、最初に記事にしたのは魯文だった。魯文は、小団治の要請を受けて後藤を紹介し、小団治は波之助の役作りのため魯文の編んだ『起廃病院医事雑誌』を読み、病を学習した。それによって、徹底したリアリズムを舞台で見せたのである。

魯文は、神田諏訪町に住んでいたころ、最愛の妻を病死させている。同じ町内には、同世代の漢方医・後藤昌文がいた。暁斎もまた配偶者や家族と病気で亡くしている。尾上菊五郎から制作を依頼され、二度目の妻の死相をもとにしたと言われる「幽霊図」やシカゴのフィールド美術館・BooneコレクションがWEB公開している肉筆画にこめられたものは、無念の死への怨念そのものなのである。二人はそうした死に共感できる人生を歩んでいた。

妖怪や幽霊はそのものが恐怖ではなく、出現までの話が恐怖である、と一龍斎貞水は、「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」の枕で語った。かつて、板橋区立美術館における新富座妖怪引幕の前でのその公演は本当に怖かった。身分制度のさまざまな矛盾による理不尽な死の表象であり、鎮魂行為として、怪談ばなしは語りつがれ、また描きつづけられたのだろう。魯文の新富座妖怪引幕の構想は、舞台でそれを表現する役者たちのエートスへの魯文自身の敬意と、逆にそうしたエートスを曲げて、為政者に取り入り開化のなかで表現を変容させていく役者たちへの警諭を、表裏一体として諧謔的に示しそうとしたと、公演を聴きながら私は想像していた。

その構想に基づき、銀座の二見朝隈の写真館で、河鍋暁斎は、たて4メートル、よこ17メートルの引幕をわずか4時間で一気に描きあげた。描く場を提供した二見は、後藤昌文が治したハンセン病の男性患者を撮影し、魯文の『起廃病院医事雑誌』に貼付した写真家だった。引幕が描かれた明治13年6月30日の翌日から、東京府の財政難により、起廃病院の公的施療はわずか1年半で打ち切られることがすでに決定していた。暁斎の渾身の制作のかたわらにいた、魯文の心のなかには、この決定への憤りもまた渦巻いていたはずだ。

引幕に関係した魯文らとは、まったく逆の態度をもって、ハンセン病問題に無関心を続けた私たちの根底にある意識を、引幕の片隅にいる波之助像は厳しく問いかけようとしているのである。(山口順子)